ウクライナ負傷者イーゴルさんにインタビュー
ロシアの軍事侵攻を受けているウクライナに対する人道支援の一環として、TMG横浜未来ヘルスケアシステムでは、戦争で負傷したレフォール・イーゴルさん(57)を傘下の病院で受け入れて治療とリハビリテーションを行っています。今回はイーゴルさんにインタビューし、ウクライナ戦争での経験や祖国に対する思い、日本で受けている治療などについて伺いました。
(聞き手=横浜未来ヘルスケアシステム顧問 高須賀茂文)
Q.イーゴルさんは、ロシアがウクライナに全面侵攻した昨年2月に志願してウクライナ軍に入られたそうですね?
イーゴルさん(以下、省略)
――その通りです。でも軍隊は今回が初めてではありません。最初は、まだウクライナが旧ソ連の一員だった時代に徴兵されて、陸軍に2年間在籍しました。20歳くらいの頃です。2回目は2014年、ロシアがクリミア半島とドネツク、ルハンスク両州に侵攻した時です。この時は志願して、1年半くらいウクライナ東部で戦いました。
Q.今回入隊された時は、すでに50歳半ばだったのですよね。失礼な質問かもしれませんが、その年齢で軍隊に入るのは体力的に厳しくはなかったのですか?
――確かに自分でも歳をとりすぎているとは思いました(笑)。でも戦時下のウクライナでは、そんなことを言っている余裕はありません。国を守りたいという気持ちはもちろんのこと、ロシア軍に自分の家族が殺されたり、自分の家が壊されることを考えると傍観者ではいられませんでした。また2014年以降、ロシアとの紛争で友達や親戚が何人も亡くなっているので、たとえ歳をとっていても、もう一度戦わなければならないと思いました。
Q.どんな部隊に所属していたのですか?
――正規の陸軍ではなく、内務省に所属する国土防衛のための軍隊です。階級は一番下のただの歩兵でした。配属されたのは首都キーウの防衛部隊でした。
Q.その部隊には、同年齢の人がほかにいましたか?
――同年齢やもっと上の人もたくさんいました。平均は45歳くらいだったと思います。みんな職業軍人ではなく、志願兵だったので前職はいろいろでした。私自身も戦争前は自分で小さな会社を経営していました。
Q.戦争に行くことは恐ろしくはなかったのですか?
――戦争に行くことが怖くない人はいません。それが普通です。でも戦闘が始まってしまうと、アドレナリンが大量に出て死に対する恐怖が吹き飛んでしまうのも事実です。
Q.差し支えなければ、負傷した時の様子を教えて下さい。
――構いませんよ。私が負傷したのは昨年3月12日に行われた戦闘でした。私たちの部隊がキーウを守っていたところ、ロシア兵が数十メートルまで迫ってきて、相手の顔がはっきり見えるほど近距離で撃ち合いました。敵の人数が圧倒的に多くて、勝てるかどうかわかりませんでした。1時間半くらい頑張りましたが、どうしても防衛線を維持できなくなってきたので退却しようとした時に、運悪く右脚の太ももを撃たれました。でも、撃たれた瞬間はひどい痛みを感じず、まるで誰かに棒で強く殴られたかのようでした。それからすぐに脚の感覚が無くなりました。戦闘中だったので、自分で応急処置をしました。多量に出血していたので、すぐに止血していなければ数分で死んでいたでしょう。でも戦闘が激しく、病院にたどり着いたのは撃たれてから15時間以上もたってからでした。幸い弾は骨に当たらずに貫通していましたが、太ももの筋肉はかなり失ってしまいました。約100日間入院し、7回も手術を受けました。リハビリも1年以上やり、ようやく杖があれば近距離なら歩けるまで回復しました。
Q.日本でリハビリテーションを受けることになったきっかけは?
――駐日ウクライナ大使館が、日本でリハビリを受ける希望者を募集していたからです。私が現在、横浜未来ヘルスケアシステムの病院で受けている治療とリハビリはとても効果があり、お陰様で来日前に比べてずいぶん楽に、しかも長い距離を歩けるようになりました。
Q.間もなく日本での治療期間が終わりますが、ウクライナに帰った後の計画は?
――さすがに今の体では軍隊に戻ることはできません。帰国後は軍関係のボランティアとして引き続き母国のために貢献したいと考えています。
Q.最後に、日本の人々へのメッセージをお願いします。
――日本の皆さんがいつもウクライナを応援し、支援して下さることに対し感謝の気持ちで一杯です。皆さんが作成した母国語診療ガイドも夫婦共に感動しました。日本は本当に素晴らしい国です。
特に人々が優しくて、誰もが(杖をついている)私を助けてくれようとしてくれるので、とても助かります。
今回、私のつたない経験をお話しすることで、日本の方々にも自分の国を守ることの大変さと重要性を再確認して頂けることを心から願っています。